お念仏に生きる      -私も、大切なあなたも、 ともに極楽へ-

お仏壇の前で、亡き家族のことを思い出す。お墓参りで、伝えられなかった言葉を心の中で語りかける。

そのとき、手を合わせて「南無阿弥陀仏」と称えてこられた方も多いのではないでしょうか。

大切な人を思って称えるお念仏。そのご縁から、もう一つ知っていただきたいことがあります。

お念仏を称えている私自身も、阿弥陀さまに救われ、極楽への往生を願う一人であるということ。

亡き方を思うことと、私自身のこれからを願うこと。その両方に、お念仏は深く関わっています。

ここでは、その教えを暮らしに重ねながら、少しずつたどってみたいと思います。

1.「南無阿弥陀仏」は、どなたに向けた言葉でしょうか

浄土宗でお念仏というとき、それは「南無阿弥陀仏」と声に出して称えることをいいます。

「阿弥陀仏」は、仏さまのお名前です。「南無」は、その仏さまを心から頼り、おまかせすることを表します。

ですから「南無阿弥陀仏」は、分かりやすくいえば、「阿弥陀さま、あなたを頼りにいたします」という心を表す言葉です。

お仏壇の前で亡き方を思って称えるときも、お念仏は阿弥陀さまに向けて称えています。そのお慈悲を頼り、大切な方のためにお勤めするのです。

では、阿弥陀さまとお釈迦さまは、どう違うのでしょうか。

お釈迦さまは、この世界に生まれ、さとりを開いて仏教を説かれた方です。そのお釈迦さまが、お経の中で、阿弥陀さまという仏さまと、その極楽浄土について教えてくださいました。

浄土宗は、その教えをよりどころに、阿弥陀さまを御本尊としてお念仏を称える宗派です。

2.法然上人が見つめられた、私たちの姿

人にやさしくありたい。腹を立てず、穏やかに暮らしたい。

そう願っていても、疲れていると、身近な人にきつい言葉を返してしまうことがあります。人と比べて落ち込んだり、うらやんだりすることもあります。

後になって「あんな言い方をしなければよかった」と思っても、同じことを繰り返してしまう。私たちは、自分の心でありながら、その心を思い通りにできないことがあります。

むさぼる心、怒る心、物事を自分の都合で見てしまう心。こうした、私たちを迷わせ、苦しめる心のはたらきを「煩悩(ぼんのう)」といいます。

そして、煩悩を抱え、迷いの中に生きる私たちを、仏教では「凡夫(ぼんぶ)」と呼びます。

これは、人の価値を低く見る言葉として受け取ってほしくありません。まず自分自身を振り返り、強がらずに、その姿を見つめる言葉として受け取りたいと思います。

浄土宗を開かれた法然上人も、ご自身をそのような凡夫として見つめられました。

どれほど学び、修行をしても、自分の力で煩悩をなくし、さとりに至ることは難しい。それならば、この私が救われる道はどこにあるのか。

その問いから見いだされたのが、阿弥陀さまの本願を頼り、お念仏を称える道でした。知識の豊かな人も、学ぶ機会のなかった人も、ともに歩むことのできる道です。

3.阿弥陀さまが、私たちのために立てられた願い

「本願(ほんがん)」とは、仏さまが、人々を救うために立てられた誓いです。

『無量寿経(むりょうじゅきょう)』には、阿弥陀さまが、まだ「法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)」という修行者であったとき、四十八の誓いを立てられたことが説かれています。

その中で、浄土宗がとりわけ大切にするのが、第十八願「念仏往生の願」です。

その趣旨をやさしく言い表すと、阿弥陀さまを信じ、その浄土に生まれたいと願ってお念仏を称える者を、必ず往生させる。それが実現しなければ、自分は仏にはならない、という誓いです。

そして、お経には、その誓いを成し遂げ、阿弥陀さまはすでに仏となられたと説かれています。

ここに、お念仏のよりどころがあります。

私たちが立派であることを頼りにするのではなく、阿弥陀さまが成し遂げられた誓いを頼りにするのです。

「こんな私では難しいのではないか」と思うときにも、自分の足りなさだけを見つめるのではなく、その私に向けられた阿弥陀さまの願いを聞いていく。

お念仏は、そこから始まります。

4.なぜ、お名前を称えることが往生の道なのでしょうか

仏教には、お経を読むこと、仏さまを礼拝すること、戒めを守ることなど、さまざまな修行があります。

その中で、なぜ「南無阿弥陀仏」と称えるのでしょうか。

法然上人は、阿弥陀さまが本願の中で、極楽往生のための行としてお念仏を選び定めてくださったからであると示されました。

これを「選択(せんちゃく)」といいます。

もし往生のために、豊かな財産が必要であったなら、貧しい人はどうすればよいでしょうか。難しい学問や厳しい修行を成し遂げることが必要なら、それができない人は取り残されてしまいます。

阿弥陀さまは、そのような違いによって救いが隔てられないよう、お念仏の道を開いてくださいました。学問や財産の多い少ないによらず、阿弥陀さまを頼り、そのお名前を称えていくことができるのです。

法然上人は、晩年の『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』でも、難しい理屈を理解し尽くすことを、お念仏の条件にはされませんでした。お念仏によって往生できると信じ、ひたすら称えることを勧めておられます。

この文章を読んで教えを知ることも、阿弥陀さまへの信頼を深める助けになればと思います。ただ、すべてを理解し終えるまで、お念仏を待つ必要はありません。

5.極楽へ往生するとは、どういうことでしょうか

「往生(おうじょう)」とは、往き生まれることです。浄土宗では、命を終えた後、阿弥陀さまの極楽浄土に生まれることを願います。

一方、「成仏(じょうぶつ)」とは、さとりを開いて仏となることです。

往生は極楽に生まれること。成仏は仏となること。
二つはつながっていますが、同じ意味の言葉ではありません。

極楽浄土は、苦しみを離れ、阿弥陀さまのもとで、さとりへの道を歩む世界です。この世では煩悩に振り回されてしまう私たちも、極楽に往生し、仏となる道を進んでいくことができます。

仏教の道を大きく分ける言葉に、「聖道門(しょうどうもん)」と「浄土門(じょうどもん)」があります。

この世界で修行を重ね、さとりを目指す道が聖道門。仏さまの力を頼り、浄土に往生してさとりへ向かう道が浄土門です。法然上人は、私たち凡夫のために、後者のお念仏の道を勧められました。

また、極楽を願うことは、自分だけが安らかになればよいと願うことでもありません。

浄土宗のお勤めには、往生した後、迷い苦しむ人々を救い導きたいという願いも込められています。

大切な人が苦しんでいるとき、何とかしてあげたい。それでも、今の自分にはできないことがある。その願いを、仏さまのもとで育み、やがて救いのはたらきへとつなげていくのです。

6.「おまかせする」とは、何もしないことでしょうか

阿弥陀さまの力を頼ることを、「他力(たりき)」といいます。

日常では「他力本願」を、人任せにするという意味で使うことがあります。しかし、浄土宗でいう他力は、阿弥陀さまの本願の力です。

その力を頼って、私たちは実際にお念仏を称えます。

法然上人は、お念仏を数多く称えたから自力になるのではない、と教えておられます。日々励んで称えていても、阿弥陀さまの願いを頼りにしているなら、それは他力のお念仏です。

日々の生き方についても、同じように大切に考えたいと思います。

お念仏は、煩悩をなくし、立派な人間になってから始めるものではありません。迷いや弱さを抱えたまま、阿弥陀さまを頼ります。

けれど、だからといって、人を傷つけてもよいということにはなりません。

きつい言葉をかけてしまったなら、謝る。自分の間違いに気づいたなら、改める。困っている人がいれば、できることをする。

法然上人も、悪い行いを改め、善い行いを心がけて念仏することは、仏さまのお心にかなうと教えておられます。

至らない自分を見つめながら、阿弥陀さまを頼り、今日できることを大切にする。

そのように、お念仏と日々の暮らしを、ともに育んでいきたいと思います。

7.信じる心を、どう受け止めればよいでしょうか

浄土宗では、お念仏を称える心がまえを「三心(さんじん)」という三つの言葉で説明します。

  • 至誠心(しじょうしん)
    自分を飾らず、まことの心で阿弥陀さまに向き合うこと。
  • 深心(じんしん)
    阿弥陀さまの本願を深く信じ、お念仏によって往生できると信頼すること。
  • 回向発願心(えこうほつがんじん)
    お念仏や善い行いの功徳を極楽往生へ向け、自分もそこに生まれたいと願うこと。

難しい名前ですが、別々の心を一つずつ作り上げなければならない、ということではありません。

法然上人は、まことの心で往生を願い、お念仏によって阿弥陀さまに迎えていただけると信じる中に、この三つの心がそなわると教えておられます。

それでも、「極楽とはどのような世界なのだろう」「私も迎えていただけるのだろう」と、疑問や不安を抱くことはあると思います。

そのとき、疑問を口にするのをためらわないでください。分からないことを、そのままお寺で尋ねていただければと思います。

私がお伝えしたいのは、疑い続けることを目指すのではなく、疑問を抱いたときにも、阿弥陀さまの願いを聞くご縁を大切にしてほしいということです。

お話を聞き、またお念仏を称える。その歩みを、ご一緒したいと思っています。

8.毎日の中に、お念仏の時間を

お念仏は、葬儀や法事の日だけのものではありません。日々の暮らしの中で続けていくお勤めです。

朝、お仏壇に手を合わせるとき。夜、一日を振り返るとき。暮らしの中に、お念仏の時間を設けてみてください。

初めての方は、まず朝夕に十遍ずつなど、続けられるところから始めてはいかがでしょうか。

法然上人は、日々の日課を定め、お念仏を数多く称えることを勧められました。その理由は、数を定めることが、怠らずにお念仏を続ける助けとなるからです。

「この回数に達したから、救っていただく資格ができた」と考えるための数ではありません。阿弥陀さまを頼りながら、日々称え続けるための目安です。

忙しさの中で忘れてしまった日には、気づいたところから、また称えてみてください。続け方に迷ったら、どうぞお尋ねください。

うれしい日にも、気持ちが沈む日にも、お念仏の時間を持つ。

その積み重ねを、暮らしの一部にしていきたいと思います。

9.悲しみがある日も、お念仏とともに

大切な人を亡くした悲しみや、病気への不安を、誰にも話せずに抱えていることはないでしょうか。

「心配をかけたくない」「同じ話を何度もしてはいけない」と、言葉を飲み込んでしまうこともあると思います。

光明寺では、そのようなお気持ちも聞かせていただきたいと思っています。うまく話そうとしなくても、答えを出そうとしなくてもかまいません。大切な方の思い出も、今つらく感じていることも、その方のペースでお話しください。

私にも、すぐに答えられないことがあります。それでも、お話を伺い、ともに悩み、ともに手を合わせることを大切にしたいと思っています。

私たちがお念仏を称えるとき、頼りにするのは、阿弥陀さまの本願です。極楽往生を願ってお念仏を称える私たちを、必ず迎え取ると誓ってくださっています。

悲しんでいる今の私も、阿弥陀さまを頼り、お念仏を称える一人です。

涙が出る日も、気持ちが落ち着かない日もあるでしょう。穏やかな心になれないからといって、自分を責める必要はありません。

この生涯を終えるときには、阿弥陀さまに迎えていただく。その願いをよりどころにしながら、今、抱えていることは、どうぞお聞かせください。

お話をすることと、お念仏を称えること。その両方を大切にできる場所でありたいと思っています。

一人で言葉にできないときには、ご一緒に「南無阿弥陀仏」と称えましょう。

10.大切な方へ、お念仏を回向する

ここで、最初の「亡き方を思って称えるお念仏」に戻りたいと思います。

阿弥陀さまを信じ、極楽往生を願ってお念仏を称える。そのお念仏の功徳を、大切な亡き方のために振り向けることを「回向(えこう)」といいます。

功徳とは、仏道の実践にそなわる、さとりや救いへ向かうはたらき、恵みのことです。

亡き方に感謝し、その安らぎを願ってお念仏を称え、功徳を回向する。これが、浄土宗で大切にする供養のお勤めです。

そこでも、よりどころは阿弥陀さまのお慈悲です。大切な方への思いを抱き、阿弥陀さまを頼ってお念仏を称えます。

また、回向は、亡き方への供養だけを意味する言葉ではありません。先ほどの「回向発願心」のように、功徳を自分自身の極楽往生へ向けることにも使います。

自分だけにとどめず、大切な人へ、さらにすべてのいのちへ。ともに極楽に生まれ、さとりへの道を歩めるようにと、願いを広げていくのです。

亡き方のために称えてきたお念仏は、そのまま大切に続けてください。

そして、そのお念仏を称えている自分自身も、阿弥陀さまのお救いの中にあることを、心に留めていただければと思います。

11.私も、大切なあなたも、ともに極楽へ

最初は、亡き家族のために称え始めたお念仏だったかもしれません。

手を合わせる家族の姿を見て、自然に覚えたお念仏だったかもしれません。

その「南無阿弥陀仏」は、今を生きている私自身が、阿弥陀さまを頼って歩む道でもありました。

阿弥陀さまの本願を信じ、極楽往生を願い、お念仏を称える。

その功徳を大切な方へも回向しながら、日々を重ねていく。

私たちは、すべてを思い通りにできるわけではありません。迷うことも、失敗することも、別れに涙することもあります。

それでも、阿弥陀さまを頼りに、お念仏を称えて、今日を生きていくことができます。

「あなたを知ることから、はじめたい。
ともに悩み、ともに歩み、ともに極楽へ。」

光明寺では、皆さまのお話を伺いながら、ともにお念仏の道を歩んでまいりたいと思っています。

南無阿弥陀仏。


教えをさらに知りたい方へ

本稿は、以下の御法語・公式解説を参考に、光明寺の言葉でお伝えしたものです。

コメントを残す